その当時、創刊してまもない集英社新書は出版界で注目を集めていた上に、『英語屋さん』も発売直後から新聞や雑誌の書評に取り上げられ、さらに第何次の英語ブームとやらも追い風になったようで、最初の1年だけで18万部を超えるベストセラーになりました。私自身にも取材や講演の依頼が相次ぎ、新しい本の企画や雑誌への連載の機会をいただくなど、稀有な体験をさせていただきました。
あれから10年を経た今日、もともと無名な私ごときはさすがに世間からすっかり忘れられましたが、『英語屋さん』を読まれた方の感想などを今でも拝見することがあって、この本が長く読み継がれていることを有り難く、また誇りに思っています。
この夏(2010年)、ひさしぶりに『英語屋さん』に関してひとつ講演するのを機会に、この本の上梓に至った過程をいま一度このブログ上で振り返りながら、講演の内容をまとめていこうと思い立ちました。こういう話ですので、中には自画自賛もあってお見苦しいかもしれませんが、
今日から2週間ほどかけて、「英語屋さんの作りかた」と題する連載をボチボチ載せてまいります (なお、この「英語屋さんの作りかた」は、かなり前にメルマガを発行していたときに書いた記事を手直ししたものです)。
それでは「英語屋さんの作りかた」 始まり始まり~
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最初の7年はもっぱらフリーランス(外注)の産業翻訳者として生計を立ててきた。10年前に初の著書『英語屋さん-ソニー創業者・井深大に仕えた四年半』(集英社新書)を上梓したことがきっかけとなって、今では文筆業を兼ねている。
そういう暮らしをしている私は、人からこう言われることがある。
「自宅で物を書いて暮らせるなんて、うらやましいですね…」
たしかにそうかもしれない。もし会社に残っていたら、神経質な私はいまごろ、上司や部下から責め立てられてストレスが重なり、胃に穴が空いていただろう。
だが、人は知るまい。たまたま出した本が十数万部のベストセラーになったところで、その1年間の所得を基準に算出された高い所得税率のせいで、その何割かはつゆと消えてしまうことも。ようやく残ったなけなしの貯金も、打ち続く不況で減った収入を補う生活費となって見る見るうちに減っていくことも。あこがれの印税生活は、本を上梓した翌年にはほぼ消え失せた。
勤めていた会社を10年足らずで辞めた私の場合、退職金も雀の涙だった。貯えといえるほどのものはなかった。辞めるにしても、もう少し勤めてからにすればよかった、と思わないでもない。
それでも、平日の昼間に家内とおしゃべりをしたり、愛猫の頭をなでたりしながら、好きな仕事をして何とか暮らしている。至上の幸福というべきだろう。
自分で書いた文章が本になって、それが書店の店頭に並んだときの感激は忘れられない。物を書くのが好きな人なら、誰もが一度はそういう場面を夢見るに違いない。
ブログやSNS、メルマガ等で手軽に文章を発表できる現在とは違って、活字媒体といえば新聞や書籍のような印刷物しかなかったほんのふた昔前までは、自分の文章を活字にして人の目に触れさせる機会はごく限られていた。
もちろん私自身にしても、自分の名前が載った本を出すに至るまでには、いろいろな体験を重ねたり、名前の出ないところで物を書いたりしてきた。著者として名前が載った本が出たのは、そういった経験に加えて、いろいろな人たちからいただいたお導きや様々な偶然の産物といえる。
この連載では、自分が踏んできたステップをひとつひとつ振り返りながら、本を出すとはどういう経験か、それによって何が得られたかを書き綴っていきたい。
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10年後、20年後のことを考えれば、それでも会社にしがみついているべきだったかもしれない。しかし、中間管理職がやっているような仕事は、自分の性に合わないように思えてきた。それよりも、自分の体力も精神力もそこまで持ちそうになかった。
転身できる余力がまだあるうちに、さっさと見切りをつけて新しい道に進んだほうがいい。半年ほど思案したあげくにこう思い至った私は、会社で学んだ実務知識を活かせるフリーランスの産業翻訳者として生計を立てることにした。
当時、私はまだ独身だった。10年足らずで会社を辞めた私には雀の涙ほどの退職金しか出なかったが、狭いアパートを借りて自分で食べて行くくらいはできた。
辞めた日の翌日の朝、目を覚まして、明るい日差しが照りかえる天井を見て感じたことはただひとつ。
「今日から会社に行かなくてもいいんだ…」
私を悩ませていた原因不明の腰痛は、会社を辞めて数ヶ月後にはすっかり治まっていた。
転職して始めた産業翻訳の仕事は順調だった。屋号は退職前から考えていた「翻訳小僧」とした。最初のうちは営業ルートの開拓に手間取ったが、それができてしまうと、ひとりなら十分に食べていけるだけの生活の資が得られた。
産業翻訳という仕事はふつう、1枚(または1語)でいくらという出来高制で仕事を請け負う。一般企業などの従業員として翻訳に従事している人もいるが、プロの多くは私のようなフリーランスだ。昔の時代劇にたとえれば「一匹狼の用心棒」といいたいところだが、実のところは内職の「傘張り浪人」のような稼業である。
都内に借りたアパートの一室に引きこもって、ひとりで黙々とワープロに向かって働く生活が始まった。同業者の中には、会社を辞めてこういう生活に入ったばかりの時期には、ひどい孤独感に苛まれる人もいるらしい。
しかし、私の場合は違った。もともと孤独を好む性分だったのか、そのような生活が楽しくてたまらなかった。もともとサラリーマンという仕事には向いていなかったのだろう。
だが、人の運命とは不思議なものだ。妙齢の女性が職場にたくさんいたサラリーマン時代には、どれほど頑張ってみても彼女のひとりさえできなかったのに、転職してフリーランスの生活に入ったことがきっかけで、結婚相手とも巡り合った。この記事の本旨から逸れるし、なにやら照れくさいので、その経緯についてはここでは省く。
今から思い返してみると、1993年当時はすでに、いわゆる平成大不況に突入していたのだが、当時の状況はまだ今日ほど深刻ではなかった。優秀な産業翻訳者はほとんどつねに供給不足の状態にあったので、新参の私にも回ってくるだけの仕事はあった。
しかし、しばらくするとフリーランスには避けられない事態に遭遇した。ある日を境に突然、仕事がぱったりと来なくなることがある。フリーランスという仕事がそもそもそういうものだとは知っていたが、1~2週間もまとまった仕事が来ないと、いささか不安になる。私はその状態を「ベタ凪(べたなぎ)」と呼んだ。得手に帆を揚げて小船で大海に乗り出してはみたものの、風がまったくない状態では進めない。
暇だからといって、急ぎの注文がいつ来るかわからないので、ふらふらと出かけてばかりもいられない(当時の携帯電話の料金はべらぼうに高く、私のような貧乏人の手には届かなかった)。だからといって、何もしないで寝ているわけにもいかない。明日に向かって、何か手を打たなければならない。
そこで私は、パソコン通信を使って、同業者との間で一種の連絡機関を作ることにした。会員限定の電子会議室(BBS、今のインターネットでいう「掲示板」)を開設して、そこで仕事情報を交換し合うものだ。当時としては斬新な試みだったせいか、この団体は、会員が会員を呼び寄せる形で、あっという間に100人近い大所帯になった。
そのうち、私の経歴や活動に興味を持った人が「こういう面白い活動をしている男がいる」と触れて回ったのが、業界誌の編集者の耳に入ったらしい。私は生まれて初めて、雑誌のインタビューを受けることになった。転職してからはや2年が過ぎた、1995年の夏のことだった。
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もう何年も昔のことなので、インタビューを受けたときのことはほとんど覚えていない。手元にある掲載誌のコピーを見て、こんなことを言っていたかなと思うくらいだ。私は、口から出まかせを言ういい加減なところがあるのかもしれないが、インタビューを受けた後で確認のために送られてきたゲラ(校正紙)を見ても、そう思うことがある(ただし、某誌から後年受けたインタビュー記事では、私が言ってもいないことを勝手につけ加えられたことがあった)。
だが、インタビューが掲載された号の発売日を心待ちにしていたことは、どういうわけかよく覚えている。まだ入荷していないかなと期待しながら書店に行っては、目を凝らしながら店頭の書棚を見回したものだ。生来、目立つことはあまり好きでないのに、不思議なものだ。
今から考えてみると、フリーランスとして走り出した私は、その当時から、寄る辺のない身のわびしさのようなものを感じ始めていたのかもしれない。
この国はまだまだ個人よりも、組織が中心の社会だ。私も大企業にいた時分は、勤め先の名前や肩書でも口にすれば、ある程度は世間から信用してもらえた。しかし、フリーランスの身では、自身の信用を裏付けるものに乏しい。自分自身では誇り高い職人を気取ってみても、相手によっては「どこの馬の骨?」という見方しかしてもらえない。この立場だけは、実際にそうなってみないとわかってもらえないかもしれない。
当時の私は、だからこそ、自分自身の能力や実績を裏付けるものとして、資格とか取材を受けたときの記事といった、一種の「箔付け」になるものを手に入れたかったのだろう。
さていよいよ、インタビュー記事が載った号が発売される日が来た。私は書店の店頭にあった5、6冊をすべて手に取ると、それを全部レジへ持って行った。
もっとも、今になって思えばどうしてそういうことをしたのだろうかと不思議に思う。人に見せるだけなら、コピーを渡せばそれで十分だ。無名な自分のインタビューを載った冊子見て喜ぶのは本人くらいで、それを人にあげたところで喜ばれるものでもない。
実際、そのときに買った初のインタビューの掲載誌は、今も行きどころを失ったまま、押入れのどこかに眠っている。
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もとより、人前に出るのがあまり好きではない私は、自分の名前や写真を雑誌に出して有名になりたいなどという願望は微塵も持っていない。ただ、前述したように、自分の実績や信用を裏付ける証になるようなものなら、何でもいいから欲しかった。
かねてから暇を見ては英語関係の検定試験を受けていたのも、一種の箔付けになればと思ったからだ。大学在学中の1982年に合格した実用英語技能検定(英検)1級は、就職活動の際には何かと役に立ったようだ。私ごときがソニー創業者の井深大氏の通訳を仰せつかったのも、この資格と何か関係があったかもしれない。
社会に出てからは、商業英語検定(日本商工会議所主催)のAクラス(1988年)と「ほんやく検定」(日本翻訳連盟主催)の1級(英和、1994年)と、いずれも最上級の試験に合格した。
もちろん、これらの資格が仕事に直結するとは限らない。特に、英語関係の資格のほとんどは、努力目標程度の意味しかない。別に資格がなくても、英語を使って仕事はできる(注)。逆に、資格はたくさんあっても仕事ができない人もいるだろう。
実のところ、仕事の役に立てばと思って受験したこれらの資格は、会社に勤めていた当時は役に立ったという実感がない。会社によっては、取得した級に応じて給料に奨励金を加算してくれるところもあるそうだが、私が勤めていた会社にはそういう制度はなかった。商業英語検定に合格したときは、念のために上司や人事部に報告したが、何の反応もなかった。会社とはそういうものだと知った。
転職を前提とせずに同じ会社で働き続けている以上、苦労して取得したこれらの資格が陽の目を見ることもない。3つ目の最上級を取ったところで、私は英語関係の資格試験への挑戦を止めてしまった。上の級に進むにつれて非常に高くなる受験料もバカにならない。
ところが、名前ばかりと思っていたこの種の資格が、フリーランスになってから物を言い始めた。
私の営業案内の略歴に書いてあった「商業英語検定Aクラス合格」という肩書が、インタビューを受けた『通訳・翻訳ジャーナル』の編集者の目にとまったらしく、「貿易英語の初歩を解説する記事を連載できる人を探しているのだが、書いてもらえないか」という依頼が舞い込んだのだ。
物書きになりたいという気持ちが心の奥底に残っていたのだろう。私はその執筆依頼を二つ返事で承諾した。原稿を執筆する仕事は、裏を取るなどの手間がかかりそうだが、そのことや原稿料の多寡は問題ではなかった。市販の雑誌の連載記事を担当する機会は、私のような無名の市井人にはそう簡単に訪れるものではない。
かくして私は生まれて初めて、月刊誌に2ページ見開きの連載「商業英語の基礎知識」を持つことになった。1995年11月のことだった。
(注)ただし通訳案内士(通訳ガイド)だけは、国家資格である通訳案内士試験に合格しないとできないことになっている。
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